1945年8月6日8:15広島に、
1945年8月9日11:02長崎に、
原爆が投下されました。
それから今年で74年目を迎えています。
8/4-8/6、生協が主催する「2019 ピースアクション in ヒロシマ」
というツアーに参加しました。
原爆ドーム、平和記念資料館、被曝の痕跡、慰霊碑等を巡り、
被爆者の証言を聞き、8/6は平和記念式典に出席しました。
生協は平和活動に非常に力を入れています。
その理由は、生協は戦争で一度無くなっているのですが、後再開するときに、
「平和でなければ活動できない。
平和なくして豊かな社会を実現する事など出来ない。
故に絶対に戦争は起こさない」
という思いを新たに、興を目指したという背景があるからです。
日本に原爆が2度も投下されたこと、
今なお、多くの方が後遺症に苦しんでいるという事実を
私たちは知る必要があり、
3度、同じ過ちが繰り返されることがないよう、
史実を伝え続けていく義務があると強く感じ、
報告させて頂く次第です。
■原爆の威力
広島に投下された原爆は、上空たった600m地点で爆発。
爆発の瞬間は数百万度に達し、地表では3000℃-000℃に達し
(太陽の表面温度は6000℃)、ガラス、鉄さえも溶け、
爆心地から4km離れたところでも大人が吹き飛ばされ、
爆心地付近では鉄骨も曲がる程の爆風が発生。
■戦争の傷はまだ癒えていない
このツアーの間、何人もの被曝者からお話を聞きました。
そこで感じたことは、戦争の傷はまだ癒えていないということでした。
未だ体内にガラスが残っているまま生活している方がいます。
被曝直後運良く生き延びても、"お国のために死ぬのは名誉なこと"
と教えられていた時代、自分だけが生き残っていることに恥ずかしさを覚え、
周りからは非国民と言われ。そして、今になってもそのような気持ちを抱えたまま
亡くなっていかれる方がいます。
「一番悔しいことは、生きている間に核兵器が無くならなかったこと」
という思いで亡くなっていかれる方がいます。
「ずか6歳で両手両足に大火傷を負い、何の手当もしてあげられず、
蛆が湧いて亡くなっていった妹のことが忘れられず、
核爆弾がどれだけ恐ろしいものか、皆さんに知って欲しくて語り部になった」
という方がいます。
その方は戦後50歳になってから自分でも入れる高校を見つけ、
そこで自分史を書き上げ、発表する練習をし、語り部になることができたそうです。
被曝体験を伝えることで、一人でも多くの方が、
核廃絶に少しでも向かってくれるのでは無いか、
そういう気持ちで語り部をされていらっしゃいます。
■平和への願い
「核廃絶」
被爆者の方々はこの言葉を繰り返し訴えます。
戦争反対、という言い回しではなく、"核廃絶"です。
一度核兵器が使用されれば世界は地獄絵図と化し、
放射能被曝による肉体的苦痛、精神的苦痛は治ることが無いことを
知っているからではないでしょうか。
核廃絶
世界中が平和になること
これが、広島、長崎の願いです。
生協主催のイベントでは平和を願う歌やダンス、
書道パフォーマンスなどが披露されましたが、
そこでご挨拶された長崎市長のお話が印象的でした。
「被爆者の平均年齢が82歳を超える今、
曝体験の証言者は年々少なくなってきている。
だからこそ、ダンスや絵画、書道、歌など、どのような形であっても、
和・核廃絶を訴え続けていくということが
これから益々大事になっていく。
そしてこれは長崎や広島だけの問題でなく、
世界の問題であるということを意識してほしい」 と。
イベントでは全国から子供たちが集まり、
"こども平和会議"というものが開かれ、
戦争を無くすためにはどうすればよいか、
皆で話し合う場がありました。
そこに参加したある子どもは、
「地域によって、戦争についてどういうふうに伝わっているかが違った」
ということを話していました。
広島・長崎、その他の地域で、
戦争についての捉え方、伝え方に、
大きな温度差があることを、
私は初めて知りました。
現代に生きる我々には次の世代に向け、
事実に目を背けることなく、
戦争の恐ろしさを伝え続けていく義務があること、
平和を願い続けていく義務があることを、
強く感じた3日間でした。
講演依頼.comでは、
佐々木 祐滋(ささきゆうじ)さんという講師をご紹介しております。
この方は、広島平和記念公園にある 「原爆の子の像」のモデルとなった少女、
佐々木禎子さんの甥にあたる被爆二世です。
佐々木さんのお話しを聞いたりして、
是非、戦争について知り、
平和について考えるきっかけにして頂けたら幸いです。
若井慎一